タカシの池 こばやしぺれこ
タカシが行方不明になってから今日で一年が経った。
酒ばかり飲んでいたタカシのお父さんは、あの日以来真面目に働いて、毎日タカシを探している。
離婚する、とぼくの母に毎日のように言っていたタカシのお母さんは、あの日以来タカシのお父さんと一緒にビラを配ったり街の警察に行ったりしている。
タカシの妹は、まだ小さくてタカシが居なくなったことをわかっていないようだが、タカシのお母さんとずっと一緒にいる。
「いってきます」
「また釣りに行くの?」
「うん。ヒロユキとマナブと一緒。いつもの池」
「そう。気をつけてね」
ぼくのお母さんは、遊びに行くぼくを毎日玄関まで見送るようになった。
村の景色は変わらない。細い道路を走る軽トラ。広がる田んぼには水が張られ、田植えの時を待っている。燕がぼくの頭を掠めるように飛んでいき、午後の空は青くて広い。
それなのにタカシは居ない。
ぼくだけが土埃の舞う道を歩いている。
集合場所はいつもマナブの家の前だ。釣り竿を持ったヒロユキが先に来ていた。
「おう」
「うん」
マナブはおばあちゃんに見送られて出てきた。
「行こ」
「うん」
ぼくらは昼下がりの農道を並んで歩く。三人で。
一年前は四人で歩いていた。
慣れとは怖いものだ。ひとり足りないことにも、もう違和感を覚えない。
その池は山と村との境目にあった。
もう耕す人の居ない田んぼと畑。ぼうぼうに生えた草をかき分けて行くと、土地の隅っこにぽかりと浮かび上がるように存在している。
山の木が、村を侵略しようとするかのように張り出し、池に暗い影を落としている。その影に魚が潜んでいるのだ。コイやフナ、名前のわからない口の大きな魚。それらを釣って遊ぶのが、ぼくら四人の――今は三人の、いつもの遊びだった。
「タカシ、来たぞ」
ヒロユキは池の真ん中から生えた竹に向かって言った。
枯れたような薄黄色に変色した、長くて細い竹だ。池の真ん中から、ぼくらが立つ位置に手を伸ばす格好で斜めに立っている。葉は生えていない。枝もない。ただの竹の棒だ。
ぼくらがいつも釣りをする為に陣取る場所から、手を伸ばせばなんとか届く位置に竹の端面はある。
「タカシ、メシ」
マナブは背負っていたリュックからゼリー飲料を引っ張り出した。ここへ来る度に、三人のうち誰かが持ってくるようにしているものだ。
竹竿の中に流し込むのは、一番背の高いヒロユキの役目だ。
ちょうど一年前。ぼくとヒロユキとマナブ、それからタカシの四人はここにいた。
「おれ、引っ越しすんだ」
タカシがそう言い出したのは、ぼくがフナを釣り上げた直後だった。
「引っ越すってどこに?」
「家建てんの?」
同じ村内に家を新築し、引っ越すだけのことを大げさに吹聴した結果、お別れ会を開かれそうになっていたのはマナブだ。
そのことを思い出したのか、ヒロユキはにやついていた。
「違う。かーちゃんがとーちゃんとリコンするって」
「……マジで?」
「今度こそ本気だってかーちゃん言ってた。おれと妹の荷物も車に積んでた」
タカシの両親が離婚するかも、というのは村の中ではもう三年は続いている噂話だ。それほどタカシの両親は不仲だった。主にタカシのお父さんの酒癖の悪さのせいだ。
タカシのお母さんは忍耐強い人だ。タカシのお父さんが仕事を辞めても、お酒のせいで村の人と喧嘩しても、すぐに離婚することはなかった。代わりに近所のぼくの家へ妹を連れて来ては、ぼくのお母さんに何かを相談しているようだった。
その忍耐も、もう限界なのだろうか。
「タカシ、どこ行っちゃうんだ?」
「かーちゃんの実家」
それはぼくらにとって外国よりも遠い土地だった。
「じゃあ……」
「もう会えない。と思う」
なんでもないことのようにタカシは言った。けれどもぼくは、その時俯いたタカシの睫毛に、光るものがあったような気がしていた。
ぼくの足元で、釣り上げたフナが跳ねていた。針を外されていないフナは、どこへ行くことも出来ずにただ踏み固められた草の上でもがいている。鱗に跳ねる水滴が、ぼくの足に飛んだ。
マナブもヒロユキも、釣り竿を振ることを忘れていた。突然の言葉に、ただタカシを見つめることしかできない。
「住所わかったらハガキ書くからさ、返事くれよな」
タカシだけが、いつもと同じような声音で喋っている。無理に明るくふるまう時独特の、語尾の震えを持ちながら。
強い風が吹いたのは、偶然だったのだろうか。
運命だったのでは、とぼくは思っている。
タカシをぼくらの下へとどめておく為に。山の神様か村の神様か、それとももっと別の何かが、そう仕向けたことではないのだろうか。
ともかく、その時ぼくの帽子が風にさらわれ、池の真ん中に落ちた。
「おれ取ってくるよ」
呆然としたままのぼくらを置いて、タカシは躊躇なく池に入っていった。
今までも、何度か池に入ったことはあった。釣り糸が切れた時、お気に入りのルアーを探すと言ってヒロユキはずぶ濡れになって池をさらっていた。マナブは釣り竿が壊れた時に、素手で魚を取ろうとしていた。
池は、深くてもぼくらの腰くらいの深さしかなかった。
そのはずだった。
「取ったよ!」
池の真ん中でぼくの帽子を振るタカシは、胸の下まで水に沈んでいた。
タカシはぼくらの中で、ヒロユキに次いで二番目に背が高いはずだったのに。
見る間に、タカシは胸まで池に浸かっていく。
タカシの表情が変わる。ぼくの帽子を掴んだ達成感は既に無く、焦りと恐怖が顔に張り付いている。タカシはぼくらの立つ岸へ向かって歩こうと、両腕を懸命に振っている。それなのに少しも進んでいない。
「タカシ!」
「なんかやばくねーか……?」
ぼくはただ沈んでいくタカシを見つめることしかできない。手を振るように降られるぼくの帽子。
「タカシ! つかまれ!」
マナブが掴んだのは、草むらの中に放置されていた竹竿だった。長くてよくしなるそれは、一度マナブが釣り竿にしようかと画策していたものだ。それは結局、マナブが誕生日に新しい釣り竿を買ってもらったことで忘れ去られていた。
「掴まれ! 引っ張るぞ!」
マナブが両腕で伸ばすそれをヒロユキも掴む。背の低いぼくは竹竿には手が届かず、とりあえず池に落ちないようにとマナブのシャツを掴んだ。
「タカシ!」
タカシはもう顎の下まで水に浸かっていた。口々に叫ぶぼくらとは対象的に、タカシはずっと無言だった。悲鳴も、助けを呼ぶこともなく、ただぼくが釣り上げたフナのように口をぱくぱくとさせている。
伸ばした竹竿の先に、タカシが掴まる。
「引っ張れ!」
ヒロユキが、マナブが、ぼくが、三人がかりで引っ張っても、竹竿はびくともしなかった。
そのかわりに、タカシが竹竿を引いた。タカシの身体が、ほんの僅か池の中を進んだ。ぼくらの方へ。竹竿の、端面へ。
そして沈んだ。
「タカシ」
呟いたのは、ヒロユキだったのかマナブだったのか、それともぼくだったのか。今となっては定かではない。
ただ一つだけ確かなのは、タカシは完全に水中へ没する直前、恐怖に引きつった顔で竹竿の端を咥えた。それだけだった。
竹竿は、それ以来池の真ん中に立っている。
ぼくらは誰にもタカシのことを言わなかった。タカシとは、池から帰る途中に別れたことになっている。
村の人達はみんなぼくらを信じてくれた。不思議なことに田んぼの中を歩いているタカシを見た、というおじいさんや、知らない人と話しているタカシを見た、というおばあさんも現れ、タカシはぼくらに関わりのないところで消えたことになった。
ぼくらはそれを訂正することは無かった。
そうすれば、ぼくらは別れることはないからだ。
同じ村で生まれて、育ってきたぼくら。ヒロユキと、マナブと、タカシ。それからぼく。
どうしても離れたく無かった。それはヒロユキもマナブも一緒だった。
結果的に、タカシのお父さんとお母さんは「タカシを探す」という目的を持ったことでか、離婚することはなかった。タカシの小さな妹は、両親が毎日揃っていることに、無邪気に喜んでいる。
「じゃあな」
「また来るよ」
池のほとりで過ごしたぼくらは、暗くなる前に帰る。
最近は、釣り竿を持って集まっても釣りをすることは少なくなってきた。ただ池に向かって小石を投げてみたり、ぽつりぽつりとタカシとの思い出について話したりするだけだ。
学校でも、ヒロユキはサッカーが好きな奴らと集まって遊んでいるし、マナブは休み時間でも教科書を開いている。
マナブは中学受験を考えているらしい、とぼくのお母さんは言っていた。正確には、マナブのお母さんがそれを考えているのだが、マナブも乗り気であることは休み時間の態度から明らかだ。
ヒロユキは背が高くて力も強いし、なによりもサッカーが上手だ。いずれサッカーが強い学校へ行くことを考えるだろう。
ぼくは。
ぼくは学校にいる間、竹竿のことを考えている。家の裏で見つけた、二本の長い竹竿。きっと池の真ん中から岸辺まで届くであろう、長い長い竹。
ぼくは今日、あの二本の竹竿を密かに池へ運ぶことにした。
いつまでも帽子をかぶり続けるぼくは、また池に風が吹くことを願っている。
こばやしぺれこ
作家になりたいインコ好き。好きなジャンルはSF(すこしふしぎ)
写真を見た時にスタンド・バイ・ミーが聞こえた気がしました。
私の通っていた中学校では「もうそろそろ帰れよー」という放送の後に流れる曲でした。
同名の映画は未見ですが、少年時代の友情って閉じられた世界だよなぁ……という少し物悲しい気持ちで書きました。。